【中津川宿紹介】杉原千畝と中津川宿



◆杉原千畝とは

 第二次世界大戦の最中、ナチスドイツから迫害されたユダヤ人。ドイツ国内だけでなく、ナチスの占領下にいたユダヤ人たちは、見つかると強制収容所に入れられ、やがてガス室に送られて命を奪われる運命でした。彼らの中にはナチスの追及を逃れるために、ヨーロッパから脱出しようとする人々もたくさんいました。当時リトアニアの日本公使館総領事の職にあり、海外渡航のためのビザ発行の責任者であった杉原千畝は、必死の思いで海外に脱出したいユダヤ人6000人に対して、無条件でビザを発行し続けました。それはドイツと三国同盟を結んでいた日本政府の指示に反するものでした。

 杉原「私は、ただ困っている人に手を貸しただけです。」

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 平成28年7月中津川市立南小学校から杉原千畝の1年時の学籍簿が見つかり、父親が勤務した税務署の職員録とも合致し、6歳からの1年半中津川(千畝ロード&中津川宿歴史散策マップ)に住んでいたことがわかりました。幼い千畝は中津町立中津尋常高等小学校(現在の南小学校)に入学し、1年半の間学校生活を送ったのです。

 杉原千畝の研究者の一人である古江孝治氏は、「千畝が少年時代の1年半中津川で過ごしたことは、彼の人生に大きな影響を与えていると考えられる。」と語っています。

◆千畝に影響を与えたと思われる、幕末から明治の中津川の様子

 千畝がいた明治38年~明治40年の中津川は、鉄道の開通によって商業、工業が復興しはじめ、経済的にも豊かとなり、人、物、金が行き交う自由で開放的な場所でした。また、幕末から明治初めにかけての激動期を体験した人たちが町を支えていたので、そのころの気風や精神がまだ街中に満ち溢れている場所でもありました。

◆「杉原千畝がかつて住んだ家」のスケッチ2点

 国際的に活躍されている、水上貴博氏より、平成31年4月17日に中津川市に寄贈されました。2点とも、かつて杉原千畝が中津川市(当時は中津町)に住んでいた際の居宅を思い描いた作品で、それぞれが異なる構図となっています。

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・玄関には、仕事に出かける父親の姿か

・障子窓から子供の姿、千畝少年か

・布団を干しているのは

・裏の先には、御退道と石橋が



掲載(最終更新 : 2020年11月10日)

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