【中津川宿紹介】天狗党と中津川宿



◆天狗党とは

 水戸藩は江戸中期ころから保守派と改革派に分かれて、何かにつけて対立していました。保守派は今までの秩序などを守ろうとする人々で、上級武士が多く、江戸幕府の方針に従おうという人たちでした。彼らは諸生党と呼ばれていました。一方改革派は、変化する時代に対応するため、新しい政策に改めようという人々で、下級武士が多く、幕府よりも朝廷を重んずる人たちでした。この改革派の中の、より急進的な人たちが天狗党とよばれたのです。

 京都にいる水戸出身の一橋慶喜様を通じて、自分たちの志を朝廷に訴えようと、京都に向かうことになりました。総大将は武田耕雲斎、副将に田丸稲之右衛門と藤田小四郎がなり、元治元(1864)年11月1日、天狗党は西上を開始し、11月20日には和田峠で待ち伏せしていた、高島藩・松本藩連合軍2000人と交戦し、激戦の末これにも勝利しますが、横田藤四郎の息子で18歳の横田元綱はこの地で戦死します。

◆天狗党、飯田を経て中津川へ

 天狗党は和田峠の戦いに勝利した後、下諏訪で伊那街道に入ります。これまで進んできた中山道の行く手には、尾張藩が管轄する木曽福島の関所があったためです。また伊那谷には、たくさんの平田国学者がいたため道を変えたともいわれています。 一行は清内路峠を越えて中山道に合流し、妻籠、馬籠、落合に分宿して一泊します。そして翌11月27日、中津川宿にやって来て、ここで昼食・休憩をとりました。

◆天狗党、中津川宿に入る

 幕府からは賊軍とみなされている天狗党は、どこの土地でも恐れられました。しかし、彼らを待っていた中津川宿の人たちは、彼らを歓待しました。宿場の通りに並ぶ温かい五平餅やきしめん、酒や茶。しかも、他の宿ではこわがって近づいてくることさえなかった女性と子どもたちまで、にこやかに迎えてくれているのです。宿場を出るときには、藁で巻いて作った納豆までもたせています。

 それだけではありません。一行の一人横田(よこた)藤四郎(とうしろう)(のり)(つな)は、和田峠の戦いで戦死した息子元綱の首を布に包み、持ち歩いていました。埋めた場所がわかれば、賊軍の兵士の首としてひどいことをされてしまうからです。中津川宿の市岡(しげ)(まさ)と間秀矩(ひでのり)は、その首を預かり、自分たちゆかりの墓地に手厚く(ほうむ)ったのでした。賊軍を歓待することに関しては、ある程度尾張藩と連絡を取り合っていたのですが、戦死した賊軍の者を葬ることは、幕府に背く重大な罪です。それでも自分たちを頼ってきた人たち、しかも主義主張を同じくする人たちに対して中津川宿の人々は、命をかけてそれに応えようとしたのです。

◆水戸浪士揮毫掛軸天狗党寄書.png

 水戸天狗党の浪士一行は元治元(1864)年11月27日、中津川宿を通過しました。その時、やまはん間家で休憩したのは須藤敬之進・根本新平・高野長五郎・桑屋元三郎・黒沢利八郎・大津雄太郎・樫村平太郎の7名でした。

 彼らは寄せ書きにそれぞれの思いを託しました。最上段の「(せい)(らく)」(須藤敬之進)、その下の「周遊(しゅうゆう)」(高野長五郎)、下段右から2行目の「従水斷」(樫村平太郎)等々、間家のもてなしに浪士たちが心静かに楽しんでいる様子がうかがえる寄せ書きになっています。



掲載(最終更新 : 2020年11月20日)

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