【中津川宿紹介】中山道中津川宿とは



◆中津川宿とは 

 中津川宿の町並みの長さは約1.1kmで、天保14年(西暦1843年)の古文書によると、宿内人口928人、宿内戸数228戸で東美濃では一番大きな宿場町でした。三と八のつく日には六斎市と呼ばれる市が開かれ、また恵那郡一帯の米の相場も中津川宿で決められるなど、商業の中心として繁栄していました。江戸方から、茶屋坂、淀川長、新町、本町、横町、下町と町並が続き、横町には枡形という直角に二度曲がる道が残っています。上の写真は、かつての本町界隈で、庄屋や脇本陣があります。

 現在の街並みには、格子造りの酒蔵や栗菓子の老舗、うだつのある家屋が街道沿いに続き、宿場内脇本陣跡地にある「中津川市中山道歴史資料館」では、貴重な古文書を中心にさまざま展示をしています。

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◆中津川宿の機能

 宿場には旅人を泊めさせたり、休ませたりするという役割と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務がありました。そのため宿場は、本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっていました。

 旅人の宿泊、休憩施設

  本陣  1軒 市川長右衛門

  脇本陣 1軒 森孫右衛門

  旅籠 29軒

 人と荷物の継立(人足や馬の確保)

  問屋場 2箇所 本陣と脇本陣が問屋を兼務

  問屋場 2箇所 文書の輸送(飛脚業務)

◆中津川宿の特徴

・ちょうど江戸と京都の中間地点にあって、東西の道である中山道、それから飛騨から中津川を通って、飯田や三河へ抜けていくことができる飛騨街道、また、名古屋へ行く下街道などがあって、東西南北に交差する街道の要所でした。

・交通の要所であったから物が行き交い、周りの村の人々や生活に必要な物資が集まり、商業が盛んでした。物が行き交い、商人が活躍すれば、当然お金も行き来し、経済が発展し、豊かな商人たちが多くいました。

・物が行き交うことは人と人が交流することです。人が交流すれば情報だけではなく、文化(人)の交流も盛んとなり、和歌や俳句(俳諧)を楽しむ人も多くいました。こうした文化の発展の中心になった人たちは、経済的に豊かな商人や、本陣、脇本陣、庄屋、山村代官たちでした。

・情報の大切さは昔も今も変わりません。その情報がいかに速くて、正確かによって事の成り行きが変わってきます。まして、幕末から明治維新に至る激動期には、一本の情報で生死が決することがあります。中津川宿の商人たちはじめ、中津川の平田門人たちは門人のネットワークから、また、江戸や京都の商売を通じて正確な情報、信頼度の高い情報を手に入れたり、発信して、中津川宿が情報センターの役割もしていました。



掲載(最終更新 : 2020年11月21日)

中津川市中山道歴史資料館
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